史跡文化財 | |||
高松市三谷町地域おこし事業推進委員会資料より抜粋) | |||
藤川三渓顕彰碑 |
藤川三渓は幕末から維新にかけて、苦境の中から志をたて、学業を成し遂げ、国家有為の人材となった。 |
石船古墳 |
石船池の水面に半島のように突き出した典型的な前方後円墳、県内第三位の規模。全長90m。5世紀初め頃のものと推定される。 写真は今も露出している石棺 |
三谷兵庫頭の墓 |
永享二年、時の将軍足利義教は三谷弥七景晴に怪鳥を射落とすよう命ぜられ、景晴は心中に神のご加護を祈り矢を放ち見事に大任を果し兵庫頭(ひょうごのかみ)に任ぜられた。 | 矢野 古墳 |
平地にぽっかり浮かぶ横穴式古墳。古くは土器,須恵器土器が出。後期古墳で六、七世紀のものと推定される。 |
春日神社・矢野氏の墓 | 奈良の春日大社の分神で江戸中期ごろの創建と推定される。近くに墓のある矢野氏は代々名僧を輩出した犬の馬場の名門で、特に矢野徳厳は水戸光圀公にも厚く偶された名僧である。 | 鎌野の毘沙門天 |
毘沙門天は仏法守護の武将の神で富貴財宝繁栄の神として祀られる。足下に鬼を踏みつけて烈しい怒りの情をあらわにしているのが普通であるが、鎌野の毘沙門天は温和な表情を示す珍しい像である。 |
三谷八幡宮 | 村上天皇の天暦年間(950年頃)三谷寺が建立された時、その鎮守として八幡神社を勧請したのが起源で、祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)である。その後、三谷三郎池が修築された時現在地に移された。 | 北原の六地蔵 | 西三谷下の北原の道端に六地蔵さんが立っている。この道は法然寺から屋島へ向かう遍路道なので、お遍路さんの安全を守るために立てられたものであろう。今も交通の安全をお守り下さっている。 |
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